嫉妬とは、自分よりも恵まれ、優れていると感じる人に対して妬みや嫉みといった感情を抱くことです。

 昔から「運命の中に定められていないものを求めてはならない」という言い伝えがあります。それは即ち、「人生には誰でも受け入れなければならない運命が存在している。名誉や金銭等を手に入れられるのはその人にその運命にあるから。それに対して、不平不満を持つ必要はない」という意味です。

 嫉妬心を放任し、嫉妬心による悪事を行った結果、悲惨な結果を招いてしまう歴史的な教訓も多くあります。
 ここでは、中国の『史記』に記載されており、日本の高校国語古典の教材にも紹介されている、孫子の兵法で知られる孫臏(そんぴん)(※1)と龐涓(ほうけん)(※2)の歴史的な事例を見ていきたいと思います。

一、孫臏の才能を嫉妬して加害する龐涓

 孫臏と龐涓は共に紀元前4世紀頃の中国戦国時代の武将です。

 かつて2人は共に兵法を学んでいました。

 龐涓はまもなく魏の恵王のもとに仕え、将軍となることができました。しかし、彼は自分の能力が孫臏に及ばないと思い、孫臏にひどく嫉妬していました。

 ある日、龐涓は密かに使者を送り、孫臏を呼んで来させました。自分より才能がある孫臏を恐れていた龐涓は、なんと孫臏の両足を切断し、顔に入れ墨を施し、人前に出られないようにしました。

 その後、斉国の使者が大梁(魏の都)に来た時、孫臏は密かにその使者と面会し、陳情をしました。斉国の使者は孫臏が稀な才能の持ち主だと思い、彼を馬車に乗せて一緒に斉国に向かいました。斉の将軍の田忌(でんき)は大変喜んで、孫臏を客として待遇しました。

二、馬陵の戦い(ばりょうのたたかい)

 13年後の紀元前342年、魏と趙は連合して韓を猛攻した際、韓は斉に援軍を要請しました。斉は田忌を将軍に、孫臏を軍師として援助させました。

紀元前350年の戦国七雄(馬陵は赤い矢印で示している)(玖巧仔, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 魏の将軍である龐涓は斉の援軍が来たという情報を聞き、韓から引き揚げ、国境を越えて西進していた斉軍を迎え撃つことになりました。

 兵法を熟知している孫臏は、龐涓の「魏の兵は猛者で、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、撤退する振りをしました。彼は斉軍の陣営の竃(かまど)の数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装しました。

 追撃する龐涓はその光景を見て、勝利を確信し、あえて歩兵を後にし、精鋭の騎兵だけを率いて一刻も早く斉軍を猛追撃しようとしました。

 一方、孫臏はその先の隘路である馬陵(ばりょう)の地で仕込みを始めました。龐涓の部隊が日暮れに到達するだろうと推測する場所で、障害物をつくらせ、大きな木の幹の皮を削り取り、そこに「龐涓はこの樹の下にて死ぬ」と書き記させました。そして、その道の両側に1万の兵を伏し、兵たちに「日没の後、此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じたのです。

 龐涓は孫臏の予想通り、夜になって文字が書かれた大きな木の下にやってきました。彼は木に書かれた文字を見つけ、火を起こして文字を照らすと、文字をまだ読み終わらないうちに、斉軍からおびただしい数の弓が一斉に発射されました。魏軍は大いに混乱し、互いに同士討ちしました。

 龐涓は自分の知恵が行き詰まり、兵が敗れたことを知り、そこで自ら首を刎ね、「遂に豎子の名を成さしむ」と言い残して死んでいきました。

 龐涓は死ぬまで孫臏の名声を恨み、深く嫉妬していました。龐涓は自らの嫉妬心によって死を招いたと言えましょう。

 

 嫉妬心によって、人を害して自分自身にも害を与える歴史的な教訓が東洋だけではなく、西洋にも多く残っています。有名な童話『白雪姫』でも、嫉妬深く悪意のある人間の結末が悲惨であることが、何世代にもわたって言い伝えられています。 

 人間として、我々は誰しも嫉妬心を多かれ少なかれ持っているでしょう。嫉妬心が芽生えた時、それに気づき、そのネガティブな感情を取り除き、心を広く持ち、人に寛容な態度を取るようにすることが大切です。

 人に良いことがあれば、人のために喜び、自分より優れているのを見たら、心を開いて人から学び、人が助けを必要とした時、最善を尽くして助け、成功させるようにしましょう。

 医学の研究では、嫉妬は悪い感情として、循環器系の病気にかかりやすいとも言われています。平和な気持ちを抱き、人と上手に付き合い、自らの教養を高め、悪い感情に左右されず、理性的に行動すれば、より穏やかで幸せな人生を送ることができ、神様からの祝福も得られることでしょう。

 危険な嫉妬心から遠く離れましょう。

(※1)孫臏(そん ぴん、紀元前4世紀頃)は、中国戦国時代の斉の武将、思想家。兵家の代表的人物の一人。孫武の子孫であるとされ、孫武と同じく孫子と呼ばれる。『孫臏兵法』は孫臏の手によると推定されている。
(※2)龐涓(ほう けん、? – 紀元前342年?)は、中国戦国時代の魏の武将。

(文・一心)