明 詹景鳳 草書千字文 卷(Zhan Jingfeng, CC0, via Wikimedia Commons)

 『千字文』(せんじもん)は、梁の武帝(在位502~549年)の命により、1,000の漢字を四字句からなる美しい韻文に編んだものです。その洗練された文体と豊富な内容によって、6世紀から20世紀の初めに至るまでの中国において、子どもの漢字の教科書や習字の手本として広く用いられました。

宋徽宗『草書千字文』(パブリック・ドメイン)

一、『千字文』にまつわる伝承

 唐の李綽が著した『尚書故実』には、『千字文』について、次のような伝承が記してあります。

 梁武帝は皇子たちに漢字を教え、書道を練習させるため、殷鉄石(いんてつせき)という能書家に命じ、王羲之の筆跡を碑文から重複しない1,000字を抜き出し、模本を作らせました。

 しかし、出来上がったのは、単に記された紙片1,000枚に過ぎず、その一文字一文字が順序も関連性もないものであったため、梁武帝は高官で文才溢れる周興嗣(しゅうこうし)(?―521)のことを思い出し、彼を宮中に呼び出し、韻文を作らせました。

 皇帝の命を受けた周興嗣は、僅か一晩でその1,000文字を用いて、整然たる詩文を作り出し、武帝に呈上することができました。そして、その労苦ゆえに周興嗣の髪が一夜で真っ白になってしまったという伝説も併せて記されています。

二、中国文化を凝縮した『千字文』

 『千字文』は、4字で一句を成す韻文が250句、全1,000字からなり、一文字も重複していません。 王羲之の草書から抽出された1,000の文字は、周興嗣の才筆によって魂が吹き込まれ、生き生きとした美しい長詩となりました。

 『千字文』には中国文化が凝縮されています。その中に引用されている古典には、『易経』『淮南子』『詩経』『尚書』『礼記』『春秋』『論語』『孝經』『孟子』『史記』『神農本草経』『管子』『韓非子』『荘子』『漢書』等があり、その範囲は、哲学、天文学、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理等にまで及んでいます。

 「天地玄黄、宇宙洪荒」(天は玄く地は黄色、宇宙は広く広大無辺)という天地誕生から始まり、「雲騰致雨、露結為霜」(雲が起これば雨をもたらし、露が凍れば霜となる) という自然現象や、「推位讓國、有虞陶唐」(位をゆずり国をも譲る 有虞の舜 陶唐の堯) という理想的な仁政、「知過必改、得能莫忘」(過ち知ればきっと改め 良いこと得れば忘れるなかれ)という人倫道徳に至るまで、『千字文』は百般の知識用語を集録しており、「ミニ百科事典」とも呼ばれています。

 『千字文』は、童蒙の教養、習字に役立つだけではなく、人格の育成にも大いに影響を与えるものです。

三、国宝 智永の『真草千字文』

 『千字文』が日本に伝来した時期については諸説ありますが、各地から発見された律令期から奈良時代の木簡の中に、『千字文』を書き写したものがあったため、『千字文』は、漢字を学ぶ手本として比較的早く大陸からもたらされたと考えられています。
 そして、正倉院へ光明皇后が寄進した際の目録『国家珍宝帳』(751年)には「搨晋右将軍王羲之書巻第五十一真草千字文」という記述が見られ、それは智永の『真草千字文』のことだと考えられています。

智永筆『真草千字文』(パブリック・ドメイン)

 『真草千字文』は、楷書と草書2体を並列に書いた千字文の墨跡です。書いたとされる智永(ちえい 正卒年不明)は、梁末から陳・隋代にかけて生きた僧侶であり、 王義之の7世の孫にあたると伝えられています。智永は書家として名高く、長年にわたり王羲之の書法を研究し、王義之の書法に最も近く、特に草書が優れていると評価されていました。

 伝承によると、智永は永欣寺(えいきんじ)の閣上に30年間も閉じこもり、王羲之の『千字文』を800本以上臨書し、それを諸寺に1本ずつ献納しました。そのうちの1本が奈良時代に日本に伝わり、世界で唯一現存する真跡本(注1)として国宝にもなっています。

 『千字文』は誕生してから現在に至るまで、識字の教材や習字の手本として広く扱われ、世界で最も長く使われた子どもの教科書だとされています。

 (注1)真跡本とは、その人が書いたものであると認められている筆跡の本のこと。

(文・一心)