黄山風景区の奇岩「仙人晒靴」(颐园居, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 大空を翔ける仙人たち。その多くは龍や鳳凰、瑞獣たちを乗り物にしています。しかし、琴高という仙人はなんと、錦鯉を乗り物にしました。琴高とは、一体どんな仙人だったのでしょうか?

 仙人たちの伝説を専門に綴った『列仙伝』の中には「琴高乗鯉(鯉に乗る琴高)」という物語が記されており、後世代々に伝えられています。

 中国の戦国時代。趙の国に、高(こう)という人が住んでいました。琴の演奏に長けていた高氏は「琴高」と呼ばれていました。

 かつて琴高は、宋の康王の門客(もんかく)として、康王のために琴を奏でていました。康王が亡くなると、琴高は全国各地を放浪し、道家の不老不死の仙術を伝え、多くの人を弟子にしました。冀州や涿郡の一帯を二百年余り放浪し、琴高は数百人の人を弟子にしました。

 ある日、琴高は弟子に「出掛けてくる」と告げました。

 弟子たちに「どこへ行かれるのですか?」と聞かれると、琴高は「涿水の中に入り、龍子を捕り、我が乗り物にする」と答えました。

 すると、ある弟子が「龍子とはなんでしょうか?龍の子孫のことでしょうか?」と尋ねました。

 琴高は「龍子は赤い鯉のこと。龍門を跳びこえたら龍になるのだ。わしが去った後、全ての弟子は禊ぎを行い、水辺に祠(ほこら)を設け、わしが鯉に乗って帰るのを心して待つように」と言い終えると、涿水の岸辺から水の中へ飛び込みました。

 弟子たちは、琴高の言葉に従い、涿水のほとりに「琴高の祠」を建て、琴高の帰来を敬虔に待ちました。

 何日経ったのか分からなくなるぐらい、ずっと弟子たちは、琴高の帰来を待ち続けていました。そんなある日、突然「バシャーッ!」という音が響き、水の中から、赤い鯉に乗った琴高が飛び出し、そのまま岸辺に建てた祠に飛び込みました。弟子たちは、祠の中に入ると、師を祀る位置に坐した琴高を拝みました。

 琴高帰来の噂は、すぐに周辺に広がりました。そして、毎日多くの人が琴高の姿を見に訪れました。こうして一ヶ月程たったある朝、琴高は再び赤い鯉に乗り、涿水の中へと去って行き、その後戻ることはありませんでした。①

 明王朝期の画家・李在(り・ざい)は、『琴高乗鯉図』というタイトルの画作で、鯉に乗った琴高が、弟子たちに別れを告げて去っていく情景を描きました。この作品は、シンプルな淡色を使用し、爽やかな作風は明王朝期の「院体」、つまり画院のスタイルに属します。この作品は構造的にも優れており、鯉に乗る琴高の振り返る姿と、岸辺にいる弟子たちの手を招く姿が呼応しています。荒々しい涿水の波や、突然吹いてくる突風、漂う雲霧などは、仙人が去りゆく時の神秘的な雰囲気を巧妙に表現しています。更に作品の中の人物たちはイキイキとした表情を見せ、しっかりした輪郭線でありながら流暢に調和しています。山、石、樹木の描き方は、宋代の郭熙の繊細さと馬遠の力強さを融合しています。

明王朝期の画家・李在の『琴高乗鯉図』の一部(ネット写真)

 李在の字は「以政」で、現在の福建省莆田市の出身でした。当時有名だった「梅峰書院」を卒業してから、雲南の知県の職に就いた時期もありました。南北宋王朝期の画作の作風の影響を受け、山水画に長けていた李在は、明の宣徳年間に上京し、画院に入りました。1468年、日本の画僧「雪舟」が明を訪れた時、李在に、破墨(はぼく)や着色の作画方法を学んだことがあります。李在の画作『二郎搜山図』で見せた画力に『西遊記』の著者の呉承恩は『二郎搜山図の歌』という長詩を書くほど圧倒されました。

 「琴高乘鯉」の伝説は、多くの文人に引用されています。例えば、唐王朝期の岑参(しんしん)は「願わくば、琴高に従い、魚に乗って雲の上に行きたい②」と詠い、李白は「赤い鯉は琴高を乗せ水面から飛び出し、白い亀は馮夷(河の神)のために道を創った。神仙のように自由自在な生活を送りたいが、今は杯を挙げて敬意を表す③」と詠いました。また、李商隠は「鯉に乗る水の仙人のように去っていく遊子。それを見送る芙蓉のような美人が、どれだけ紅い涙を流したものか④」と、王安石は「最初は水の仙人に倣って赤い鯉を乗ろうとして、また後に山の鬼に従って文狸(ぶんり)を追っていく⑤」と、琴高にまつわる文学作品が数多くあります。

 古代中国では、魚の文化的な比喩も非常に豊かでした。「余」や「裕」と発音が近いため、「魚」は「富裕」の象徴となり、縁起の良いものとして重要視されてきました。孔子の夫人が妊娠中、お祝いとして鯉をもらったことから、孔子は、息子の名を「鯉」とし、字を「伯魚」と名付けました。また『詩経』にも鯉と魴(かがみだい)の二つの魚を名高い美女と並べて、「魚を食うのに、黄河の大魚である必要もない。妻をめとるのに、斉の国のお姫様である必要もない。魚を食べるのに、黄河の鯉である必要もない。妻をめとるのに、美しさで知られる宋の女性でなくともよい⑥」と詠いました。

 古代中国の文化には神と人が共存し、いわゆる「半神の文化」が発展していました。修煉の文化や神の奇跡は、数多くの絵画、詩賦などの文芸作品に取り入れられ、現在にまで伝わっています。神と共に育まれた文化は、中国伝統文化の大きな魅力のひとつです。

註:
①中国語原文:琴高者,趙人也。以鼓琴為宋康王舍人。行涓彭之術,浮游冀州涿郡之間二百餘年。後辭,入涿水中取龍子,與諸弟子期曰:「皆潔齋待於水傍。」設祠,果乘赤鯉來,出坐祠中。日有萬人觀之。留一月餘,復入水去。(『列仙傳・琴高』より)
②願得隨琴高,騎魚向雲煙。願わくば、琴高に隨ふを得て、魚に騎りて雲煙に向かわん。岑参『阻戎瀘間群盜』より
③中国語原文:赤鯉涌琴高,白龜道馮夷。靈仙如仿佛,奠酹遙相知。(李白『九日登山』より)
④中国語原文:水仙欲上鯉魚去,一夜芙蓉紅淚多。(李商隠『板橋曉別』より)
⑤中国語原文:初學水仙騎赤鯉,竟尋山鬼從文貍。(王安石『小姑』より)
⑥豈其食魚  豈に其れ魚を食らふに
 必河之魴  必らずしも河の魴ならんや
 豈其取妻  豈に其れ妻を取(めと)るに 
 必齊之姜  必らずしも齊の姜ならんや
 
 豈其食魚  豈に其れ魚を食らふに
 必河之鯉  必ずしも河の鯉ならんや
 豈其取妻  豈に其れ妻を取るに
 必宋之子  必ずしも宋の子ならんや
 (『詩經・國風・陳風<衡門>』より)

(文・戴東尼/翻訳・常夏)