白馬寺の山門(Gisling, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 文化大革命ほど、中国文化に破滅的な打撃を与えたものはありません。

 1966年8月18日、毛沢東が天安門広場で紅衛兵と接見した後、紅衛兵たちは、「四旧を打破するぞ」と叫んで街頭に繰り出し、知識人や文化人を攻撃し、寺院、道観、仏像、名跡、絵画、骨董品などを破壊し始めました。

一、「四旧」とは何か

 紅衛兵らが打破しようとした「四旧」とは一体なんなのでしょうか? それは「古い思想」、「古い文化」、「古い風習」、「古い習慣」のことです。

 「古い思想」とは、老子や孔子から、董仲舒、韓愈、朱子、王陽明、胡適に至るまで、歴史上の全ての思想家、儒学者の考え方、彼らの著作、そして彼らの思想から影響を受けた作品、著作全般を指します。

 「古い文化」とは、倫理に基づいた礼節や、文学芸術、教育などを指し、それには有形的なものと無形的なものがあり、「古い思想」より更に幅広い内容が含まれています。

 「古い風習」とは、人々が日常生活の中で代々受け継いできた風俗習慣のことを指します。衣、食、住の他、年中行事や冠婚葬祭、娯楽、礼儀、慣習も含まれます。

 「古い習慣」とは、長い年月をかけて形成された人々の行動パターン、慣わし、そして考え方や風習から生まれた固定観念も含まれます。

 「四旧を打破する」というのは、即ちこれらの文化、思想、風習、習慣を根絶することです。

二、幾多の文化財の破壊

 文化大革命は、中国文化の破滅を意味します。

 本文では、文化大革命の嵐の中で破壊されてきた数え切れないほどの文化財から、ごく僅かな代表的なものを取り上げて、ご紹介します。

蘭亭(らんてい)

 蘭亭は中国浙江省紹興市の蘭渚(らんしょ)山麓にあった亭(あずまや)です。東晋の永和9年(353年)、王羲之がこの会稽山の麓で名士らを招いて「曲水の宴」を開き、その模様を有名な『蘭亭集序』に記しています。

破壊され、その後再建された蘭亭碑(碑に割れた跡が残っている)(Gisling, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

 蘭亭は古くから文化人の心の聖地であり、1600年の間、訪れる客が絶えませんでした。しかし文化大革命の中、蘭亭が破壊され、王羲之の墓も取り壊され、清王朝の康煕帝(こうきてい 清の第4代皇帝)手迹の「蘭亭」の御碑も二つに割られ壊されました。御碑はその後修復されましたが、残字となってしまいました。

醉翁亭(すいおうてい)

 安徽省朱県の琅琊山(ろうやさん)の麓に、宋の欧陽修(1007〜1072)が知州であった頃に建てた「酔翁亭(すいおうてい)」があります。 欧陽修はこれについて有名な「酔翁亭の記」を書きました。蘇東坡は「酔翁亭の記」を直筆で書き、その文字が石碑に刻まれ、およそ千年近くもの間、その石碑は酔翁亭に立っていました。紅衛兵は欧陽修を悪人だと決めつけ、石碑を打ち壊し、石碑に刻まれた蘇東坡の筆跡の半分近くを削り取りました。そして、酔翁亭の側にある蔵に所蔵されていた歴代の名文家の書画も荒らされ、それ以来、その行方が分からなくなったそうです。

地元政府によって再建された酔翁亭(イメージ:三猎, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

白馬寺(はくばじ)

 古都洛陽にある白馬寺は、文献で確認できる中国最古の仏教寺院で、既に1900年もの歴史があるとされています。現存する白馬寺は明の時代に修復されたもので、500年近い歴史があります。

 文化大革命の真っ最中、白馬寺も破壊の対象となりました。寺の近くにある人民公社の共産党支部書記が農民らを率いて寺にやってきて、遼時代(916〜1125年)の18羅漢像(乾漆像)を大破させ、2000年前にインドの僧が持ち込んだ経典を燃やし、希少な宝物である翡翠の馬を壊しました。

白馬寺の山門(Gisling, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

法門寺(ほうもんじ)

 法門寺は西安の郊外にある1700年以上の歴史を持つ寺院です。法門寺の塔には仏陀釈迦の指骨(仏舎利)が納められています。唐の僖宗(きそう、唐の第21代皇帝、873~888年在位)が即位した後、その仏舎利を数千個の宝物と一緒に塔の下の地下宮殿の石室に入れ保存しました。明の万暦年間(1573〜1620)に仏塔が修繕された際、地下宮殿は開放され、善男善女が仏舎利を参拝することができたそうです。

(左)1981年に大雨によって崩壊した法門寺塔(ネット写真)(右)1988年竣工した法門寺塔(Gisling, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 1966年9月、紅衛兵らが法門寺にやってきて、地上の仏殿や仏像を壊し、地下も掘り起こそうとしました。寺の住職である良卿法師が塔の下の仏舎利を守るため焼身自殺をし、その場面に圧倒された紅衛兵らは、漸く寺院を離れていきました。

 1987年、法門寺の修復に伴い、地下宮殿が発掘され、1100年間埋もれていた宝物の全てが発掘されました。

北京の城門

 中華人民共和国の建国後、歴史建造物を保護する専門家らに対して、毛沢東は「北京で牌楼を取り壊し、城門に穴を開けるぐらいで、泣くか?これは政治問題だ」という一言で、真っ向から一蹴しました。1952年から、北京の外城壁、内城壁、城門が相次いて取り壊されました。現在、北京にあった20の城門の内、残っているのは、天安門、正陽門、徳勝門とその後再建した永定門のみとなっています。

 遼王朝(916〜1125年)から築き上げてきた古都北京は、戦争ではなく、中国共産党によって破壊され、変わり果てた姿となりました。

取り壊された北京の城門の数々(一)(左)1950年の永定門、(中)1910年の広安門、(右)1900年的崇文門(パブリック・ドメイン)
取り壊された北京の城門の数々(二)(上)1953年的西直門、(下)1908年的東直門(パブリック・ドメイン)

 他にも、山東省にある孔子の陵墓が掘り返され、孔子廟で保存されていた古書、絵画、文化財、石碑など5,300点余りが焼かれ、破壊されました。

 文化大革命の中で、中国全土で約1,000万人の人が法律に基づかないで捜査を受け、家財を没収されました。民間に散在していた書画、骨董品、装飾品、古書など、壊され火に焼かれた数は数え切れないほどです。 北京だけでも、1958年1回目の文化財点検で保存されていた6,843件の文化財と遺跡のうち、1966年8月から9月の間に、4,922件が完全に破壊されました。

 文化大革命は有形文化財を破壊しただけではなく、中国の伝統文化そのものを徹底的に根絶し、中国という国の文明を大きく後退させました。その影響と損失は今日に至るまで続いています。

三、なぜ自国の伝統文化をそこまで破壊するのか

 中国共産党はなぜ、そこまでして自国の伝統文化を破壊しなければならないのでしょうか?それは、中国共産党が中国の伝統文化を最も憎しみ、最も畏れているからです。

 中国の伝統文化は、徳を尊び、道を重んじ、善悪に相応の報いがあると信じ、仁、義、礼、智、信などの価値観に敬意を払い、天人合一を信じるものです。

 唯物論、無神論、マルクス・レーニン主義を信奉する共産党は、中国の伝統的な道徳観に相容れないため、様々な政治運動を起こし、中国文化を全面的に、徹底的に、容赦なく破壊したのです。

 しかし、中国の伝統文化は消滅されるでしょうか?

 蒋介石はかつて演説の中で、「中国文化は誰にも壊されないだろう。 我々中国文化が表現する『民族の独立した性格と能力』の大義正気こそが、最終的に共産主義者らを滅ぼすことになるだろう」と断言しています。

 中国の伝統的、正統的な文化を継承する法輪功修煉者たちは、2004年から中国共産党、共産主義青年団、少年先鋒隊などの組織から脱退する、いわゆる「三退運動」を始めました。それ以来、既に4億以上の中国の人々が三退の意を表明しました。そう遠くない将来、我々は必ず中国共産党の解体を見届け、必ず中国共産党のない中国を迎えることができるでしょう。

 中国共産党を滅ぼすのは、正しく代々受け継がれてきた真の中国の伝統文化による力に違いありません。

参考文献:「几多文物付之一炬?一九六六年“破四旧”简记」 著者 丁抒

(文・一心)