群書治要(en-gb.facebookより)

 『群書治要』(ぐんしょちよう)は、唐の太宗李世民の勅命により、秘書監の魏徴(ぎちょう)ら学識ある高官たちが、治世のための参考書として編纂したものです。本書は、春秋戦国時代から晋代までの67種の典籍から、治世の上で参考にすべき文章を抜粋し、唐の貞観五年(631年)に完成しました。中には今日現存しない文献を引用したものもあるため、史料的価値も極めて高いとされています。

一、中国に於いては千年も散逸した

 『群書治要』は宋の初期に中国に於いては、既に散逸していたと見られています。幸いなことに、奈良時代の遣唐使によって本書は日本に持ち帰られ、日本の歴代天皇や武家に重んじられ、伝存されました。

 江戸時代の儒学者である細井徳民(1728〜1801)は『刊群書治要考例』の中で、次のように述べています。

 「謹考國史、承和、貞觀之際經筵屢講此書、距今殆千年、而宋明諸儒無一言及者、則其亡失已久……」

 現代語訳すると「わが国の歴史を慎重に考察すれば、承和、貞観(857年)に、経書を講義する席で、何度もこの本が講じられていた。現在まで、既に1000年も経った。ところが、本書に関して、宋、明の儒学者で言及する人は1人もいなかった。即ち、この本は、既に(中国で)長く散逸したということである」となります。

 古川美子の『資料紹介「群書治要」』によると、鎌倉時代、北条実時・貞顕が書写し、清原教隆らが加点した『群書治要』が、実時が創設した金沢文庫に置かれました。巻子本全五十巻で、現伝本の祖本とされるものだそうです。

 その後、金沢文庫旧蔵本を徳川家康が入手し、1616年に、駿河で銅活字を用いて出版し、天明7年(1787)、尾張藩においても 『群書治要』の翻刻を行い、その後間もない寛政3年(1791)に後修本も出版されました。

 近藤重蔵(1771〜1829)(注1)の『右文故事』(注2)等の資料によると、彼は寛政8年(1796)に寛政後修本を唐館(注3)に贈り、中国商人がそれを中国に持ち帰ったそうです。このようにして、『群書治要』が母国の中国に伝わりました。

古活字版(駿河版(するがばん)) 巻1 魏徴(ぎちょう)等撰 1616年(元和2)刊国立国会図書館所蔵

二、『群書治要』の内容について

 『群書治要』は先秦から唐代までの、経・史・子三部にわたる67種の書物から、政治の要となる文章を抜粋し、それらを書物ごとにまとめています。その中には、名言、格言、訓話等が数多く収められています。 また、内容の選定から、太宗皇帝が宗派にこだわらず、正教を支持し、 儒学を正し、道教を尊重することが見受けられる、とされています(注4)

 『群書治要』の50巻の目次は以下となります。
  巻一   周易
  巻二   尚書
  巻三   毛詩
  巻四   春秋左氏伝(上)
  巻五   春秋左氏伝(中)
  巻六   春秋左氏伝(下)
  巻七   礼記
  巻八   周礼・周書・国語・韓詩外伝
  巻九   孝経・論語
  巻十   孔子家語
  巻十一  史記上
  卷十二  史记下・呉越春秋
  巻十三  漢書(一)
  巻十四  漢書(二)
  巻十五  漢書(三)
  巻十六  漢書(四)
  巻十七  漢書(五)
  巻十八  漢書(六)
  巻十九  漢書(七)
  巻二十  漢書(八)
  巻二十一 後漢書(一)
  巻二十二 後漢書(二)
  巻二十三 後漢書(三)
  巻二十四 後漢書(四)
  巻二十五 魏志(上)
  巻二十六 魏志(下)
  巻二十七 蜀志・呉志(上)
  巻二十八 呉志(下)
  巻二十九 晋書(上)
  巻三十  晋書(下)
  巻三十一 六韜・陰謀・鬻子
  巻三十二 管子
  巻三十三 晏子・司馬法・孫子
  巻三十四 老子・鹖冠子・列子・墨子
  巻三十五 文子・曽子
  巻三十六 呉子・商君子・尸子・申子
  巻三十七 孟子・慎子・尹文子・尉繚子
  巻三十八 孫卿子
  巻三十九 呂氏春秋
  巻四十  韓子・三略・新語・賈子
  巻四十一 淮南子
  巻四十ニ 塩鉄論・新序
  巻四十三 説苑
  巻四十四 桓子新論・潜夫論
  巻四十五 崔寔政論・仲長子昌言
  巻四十六 申監・中論・典論
  巻四十七 劉廙政論・政要論・蒋子
  巻四十八 体論・典語
  巻四十九 伝子
  巻五十  袁子正書・抱朴子

三、最後に

 中国の伝統文化が時代を超えて途切れることなく受け継がれた大きな理由のひとつには、先人たちが世界でも類を見ないほど大量の文化資料を残してくれていたことがあげられます。 これらの書物は中国人に恩恵を与えただけでなく、日本にも伝えられ、日本の政治にも大きな影響を及ぼしたと思われます。

 江戸時代の儒学者である林信敬(1767〜1793)(注5)は「校正群書治要序」(注6)の中で次のように述べています。

 「我朝承和、貞觀之間,致重雍口熈之盛者、未必不因講究此書之力……。先明道之所以立,而後後知政之所行。先尋敎之所以設、而後得學之所歸……」 

 現代語訳すると、「わが国が承和、貞観の間(834〜876年)、社会が繁栄したのは、この書物の力によるものだと考えられる……。本書は治国の道理を理解させた上、政治をどう行うべきかを分からせ、教育の目的と原点を理解させた上、勉強する意味を分からせた……」となります。

 1000年もの時を経て、『群書治要』は幾多の苦難を経て、中国に再び現れました。それには、中国から伝来した文化を大切にする日本の大きな功績があり、それを高く評価しなければならないと考えます。

 真の中国の伝統文化が復興することを心より期待しています。

 注1: 近藤重蔵は、文化5年(1808)2月、38歳で書物奉行を拝命。彼は貴重書の取扱いについて建言し、目録の改訂に着手するなど、書物奉行の職務に意欲的に取り組んだ。
 注2: 江戸時代の書誌学研究書である。 近藤重蔵が1817年(文化14)に著した。 幕府の紅葉山文庫に所蔵する貴重書の来歴を考証し、また、1750年(寛延3)以前の歴代将軍の学芸上の事績を明らかにした名著である。
 注3: 江戸時代の長崎における唐人(中国人)居留地である。
 注4: 明慧ネット 文史漫谈『群书治要』
 注5: 江戸時代中期の朱子学派の儒学者
 注6: 天明7年(1787)、林信敬が天明版の『群書治要』に書いた序章。

(文・一心)