乾隆帝と劉墉 (映画のスクリーンショット)

 君主と臣下の関係を指す君臣の道。それは昔からの学問の一つでした。間違った一言のために、斬首される者もいれば、優れた一言のおかげで、とんとん拍子に出世する者もいました。更には君主の気分により臣下の運命が決められる時もありました。

 人は誰しも、褒め言葉などの聞き心地の良い言葉を好みます。これは「十全老人」と自称している乾隆帝でさえも例外ではありませんでした。

 乾隆帝在位の時代の著名な人物だった『劉墉(りゅうよう)』は、同期の『和珅①』ほど皇帝の恩寵を受けていませんでしたが、多くの民間の歴史書の中に、劉墉は賢明で機智に富む人物として記載され、乾隆帝と多くの詩文を唱和した事などの、多くの面白い逸話を残しています。

 劉墉は皇帝との会話のたびに、自身の原則に従い、他人の利益を損ねず、かつ皇帝を愉快にさせる話ができる優れた才能をもっていました。

 ある時、乾隆帝は劉墉に質問しました。この時の劉墉の答えは、彼の無類の賢明さを表しています。

 乾隆帝は「毎日何人の人が、京城の九門②を出入りしているのか?」と劉墉に質問しました。巨大な京城には、毎日多く人が出入りしており、このような難題に対して、普通の人であればきっと言葉を失うでしょう。たとえ門番の仕事をしている衛兵でさえ正確な人数を答えるのは難しいはずです。

 しかし、大学士の職にあった劉墉にとっては、これは難問ではなかったようです。彼は少しだけ考えて、すぐに「陛下、2人(ににん)でございます」と答えました。乾隆帝が質問しようとするのを待たず、すぐに劉墉は「私が申し上げましたのは2人(ふたり)ではございません。2種類の人、つまり男の人と女の人でございます」と説明しました。

 乾隆帝はこのような難問を出して、劉墉が答えに詰まることで優越感を得たいと考えていました。そのため自然と「目の前の劉墉に才気を示して欲しくない」と思っていました。

 乾隆帝は続けてまた聞きました。「では、我が清国では一年間でどの位の人が生まれ、どれ位の人が死ぬのか?」

 明らかに劉墉を困らせるための質問だったが、劉墉は逆に落ち着いた様子で「1人生まれ、12人死にます」と答え、続けて十二支に基づき「その年が寅年であれば、生まれてくる人は全て『寅年生まれ』になります。死ぬ人が12人であるというのは、すなわち毎年どの干支であっても、12の干支に生まれた人が亡くなるからです」と説明しました。

 劉墉の回答は確かに際立つものがありました。もし、具体的な数字を言ってしまえば、たとえ本当のことであっても、皇帝もいい加減な答えだと思うか、あるいは劉墉が知識をひけらかしていると思うかもしれません。しかも、死亡者数をとても多く言えば、皇帝は劉墉が皇帝である自分に徳がないと皮肉ったと思うかもしれません。

 一年中皇帝に付き添い、自分の功績は直接皇帝の目で見られているわけですから、確かに一般の人より良い転機に恵まれる機会は多くなります。しかし、これはチャンスと同時に、リスクも増えることを意味します。

 皇帝の機嫌が悪い時、一言でもうっかりしたことを言ってしまえば、命さえも失いかねません。ですから、いかなる質問に答える時でも、慎重の上に慎重を重ねなくてはなりませんでした。

 劉墉は数十年間官界に在籍し、亡くなった後も嘉慶皇帝によって太子太保という爵位を与えられ、賢明で善良な功臣として「賢良祠(けんりょうし)」に祀られました。その卓越した能力に加えて会話術が、劉墉をここまでの地位に引き上げとも言えます。

 劉墉は、皇帝に迎合し話を合わせたり、お世辞をいったりするのが上手いのは当然ながら、尊厳の問題でも、決して気遣いを怠りませんでした。

 劉墉が恐妻家であることは有名だったので、ある時、大臣たちとの国政の討議が終わった後、乾隆帝は劉墉に「聞くところによれば、お主はとても妻を恐れているそうだな」と聞きました。劉墉は情けなく思いましたが、大臣たちの目の前で反論すると皇帝の尊厳を損なうと思ったので、言い方を変えて「私が妻を恐れているのではなく、妻が私を恐れないのでございます」と答えました。

 もし、劉墉が第一声で皇帝の質問に否定すると、それは嘘を言うことになります。さすがに彼が妻を恐れていることは争えない事実です。しかし、夫婦の間の話を延々と続け「実は妻を恐れていない」と強がっても、皇帝は聞き厭きるでしょう。劉墉は、あっさりとした一言で、自分の致し方なさを言い表す一方で、妻への尊重も表現したのです。

 古人いわく「大智若愚(本当の賢者は奥深く、利口ぶらず、まるで愚者のようだ)」。皇帝に忖度するのは難しいとはいえ、皇帝の心は全く推し量れない訳ではありません。皇帝の面前で言行を慎む者だけが、命を取り留めることができます。劉墉は巧な受け答えをすることに長けていたので、朝廷の中での浮き沈みはありましたが、有終の美を飾ることができました。

 嘉慶九年(紀元1805年)、劉墉は北京で病気のため逝去しました。享年85歳でした。劉墉はその日、客人を招き宴会を開いていましたが「晩まできちんと正座しながら亡くなった」と言われています。

 註:
 ①和珅(ヘシェン)は乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えたが、莫大な収賄によって中国史上最大の富豪となり、正一品文華殿大学士・軍機大臣として専横の限りを尽くした。乾隆太上皇帝が崩御すると、親政を行おうとする嘉慶帝によって賜死となった。
 ②「京城の九門」とは、現在の北京にあった城への出入り口にあたる九つの門。

(翻訳・夜香木)