(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 蜀(現四川省)の県境に、貧しい僧と金持ちの僧がいました。貧しい僧が金持ちの僧に「僕は南海に行きたいのですが、どうしたらよいでしょうか?」と聞きました。金持ちの僧は「あなたは何に乗って行くつもりですか?」と聞くと、 貧しい僧は、「水筒と鉢があれば十分だと思っていますが」と答えると、金持ちの僧は「わしは何年も前から金を貯めて、船を借りて行く計画を立てていますが、未だに実現出来ていません。何も持っていないあなたが、遠い南海に行くのは無理だと思います」と答えました。

 その翌年、南海から帰ってきた貧しい僧は、金持ちの僧に南海に行ってきたことを伝えると、金持ちの僧は赤面しました。

 これは、清の文学者である彭端淑(1699年頃−1779年)が、自分の甥に書いた随筆「学を為す」の中に収められている物語です。

 「世の中には、易しいことと難しいことの差はありません。やりさえすれば、難しいことは易しいことになり、やらなければ、易しいことも難しくなります。勉強も同じです。勉強さえすれば難しい学問は簡単になり、勉強しなければ簡単な学問でも難しく感じます。頭の良さと才能を持っているのに勉強しない者は、必ず自分の才能を駄目にします。頭が少々悪くても、それに屈せず、ひたすら勉強し続ける人は、必ず自分の努力によって成功を収めることができるでしょう」と、作者は甥にその道理を伝えようとしたのでした。

 この物語を読んで、いろいろ考えさせられました。何か難しい局面に遭遇するとき、我々はすぐに取り組もうとせず、「近道」や「逃道」を探し、「明日にしよう」、「後に回そう」と言い訳をしがちです。それだと、金持ちの僧が船の準備が整うのを待っていると同じではありませんか?

 それは、まさしく明の文人 銭福(1461−1504)の詩「明日歌」で歌っている、「明日復た明日、明日何ぞ其の多さ。日日明日を待てば、萬事蹉跎(ばんじさてつ)を成す」となります。即ち、毎日、その日に物事を成し遂げないで「明日」を待っていれば、永遠に、時間を無駄にてしまうということです。

 千里の道も一歩から始まります。一歩を踏み出せば、一歩前進となります。世の中の全てのことが同じです。少しずつ積み重ねて努力し、時間を大切にしていけば、やがては成功に至るものですが、それを怠ると、結局何も成し得なかった金持ちの僧と同じようになるのです。

(翻訳・一心)