栄叡(?~749)は美濃出身の興福寺の僧侶で、出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため、普照と共に第9次遣唐使船(733年)で出航し、入唐しました。

 唐では洛陽の大福先寺で「三師七証」の儀式で具足戒を受け、洛陽大福先寺の律僧道璿(どうせん)※1に要請し、道璿の日本への渡航を成功させました。しかし、栄叡と普照は帰国することなく、日本に招く戒律僧を探し続けていました。

 唐に滞在して10年が経った頃、揚州大明寺の鑑真に拝謁し、日本へ渡ることを要請しました。鑑眞は渡航することを決意し、数回にわたり渡航を決行しましたが、いずれも失敗し、6度目にしてようやく日本へ渡ることができたのでした。 

 栄叡は鑑真の5回の渡航に同行し、密告、拘束、難破等あらゆる苦難を嘗めた末、志半ばに唐の端州竜興寺で客死しました。

 鑑真の来日に尽力した栄叡について、これから話したいと思います。

 742年10月、栄叡と普照は揚州の大明寺へ行き、鑑真の足元に頭をつけて最敬礼をし、日本へ渡り、戒律を広めるよう懇願しました。鑑真は、当時既に唐全土で名声が高い高僧でしたが、栄叡らの熱意を受け、自ら渡航を決意しました。

 彼らは計6回の航海をしましたが、その航海はいずれも困難を極めるものでした。
 

鑑真第六回渡海図(パブリック・ドメイン)

 ①1回目の渡航

 当時の唐の法律では国境を超えることが禁じられていたため、日本への渡航は密出国ということになります。

 742年の1回目の渡航計画は、時の宰相李林甫の兄弟・李林宗の口添えがあったため、順調に進みました。鑑真は21名の弟子を連れて寧波港を出港しようとしましたが、弟子の新羅人弟子が日本に行くのを渋っていたため、中国人弟子の間でトラブルが起きました。そして新羅人弟子の如海は、栄叡らが海賊と結託して悪だくみをしていると、役所に虚偽の密告をしました。

 如海の密告により、栄叡と普照は当局に逮捕され、渡航用の船も没収され、鑑真一行は大明寺に戻らざるを得なくなりました。その後、李林甫の口利きによって密告は虚偽であることが判明し、栄叡らは釈放されましたが、当局は鑑真らの渡航を禁じました。

 ②2回目の渡航

 743年に2回の渡航計画を行いました。鑑真は銅銭80貫を出して、船と食料・物資を買い集め、185人の渡航団で出発しました。彼らは長江河口まで出たところで波に襲われ、なんとか外海に出たものの、船は破損してしまいました。船を修理し、下嶼山という島で1ヶ月足止めされた後、再出発しましたが、船は再び座礁してしまいました。一行は飢えと渇きに喘ぎながら救出を待つ他ありませんでした。

 ようやく救出された一行は明州の阿育王寺で保護されました。

 ③3回目の渡航

 3回の渡航は744年に行う予定でしたが、その計画は事前に潰されてしまいました。栄叡が鑑真を連れ去ろうとしているという訴えが役所に届き、「けしからん」ということで、栄叡の身柄が拘束されたのです。このようにして、三度目の渡航は失敗に終わりました。 

 その後、拘束から逃げ出した栄叡は、鑑真、普照らと合流し、早速次の渡航計画を練りました。

 ④4回目の渡航

 4回目の渡航も同じく744年に実行しました。彼らは福州(福建省)からの渡航を目指しました。予め弟子を福州に派遣して船や物資を調達し、天台山に巡礼すると偽り、出発しました。今回の渡航も数々の困難に遭い、やっとのことで福州についたと思ったら、またすぐに捕まってしまいます。鑑真が日本に渡ることを惜しんだ弟子が、密告していたのでした。

 ⑤5回目の渡航

 5回目渡航計画は、5年後の749年に実行されました。揚州を出発し長江を下り、ようやく外洋に出ることができましたが、嵐に遭った末、長期間漂流するなど過酷を極めました。飲み水が尽き、誰もが死を覚悟する中、栄叡は一同を鼓舞するかのように「夢に官人が現れ、雨乞いに水を送るように命じた」と話しました。すると翌日、本当に雨が降り、乾きを癒やすことができたと言います。このように栄叡は、鑑真にとって頼もしい存在でした。

 その後、船は海南島に流され、鑑真一行が端州(現在の広東省)に入った時、栄叡は病に倒れました。最期の言葉として「骨はたとえ土中の塵埃となったとしても、志はなお海東の戒法にある」と鑑真に言い残したのでした。

 鑑真はあまりに炎熱の地を通ったために目が見えにくくなり、やがて失明してしまいました。

 ⑥6回目の渡航

 度重なる渡海の失敗と失明という困難を乗り越え、天平勝宝5年(753)、鑑真は6回目の渡航にして、遂に日本に辿り着きました。多くの参加者の中で、初志貫徹し日本にたどり着いたのは、鑑真と弟子の思託と普照の3人だけでした。

 その後、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇らの帰依を受けました。そして、 唐招提寺を創建し、日本で戒律を伝え、医学や建築技術など多方面に及ぶ多大な功績を残しました。

 栄叡は鑑真を日本に招請して戒律を広めるという使命感に燃え、自らの死をも覚悟してその高い志を持ち続けました。そこから、彼の仏法に対する揺るぎない固い信念が感じ取れます。先人たちの崇高な精神と品格に敬意を表したいと思います。

 ※1道璿 入唐した僧栄叡と普照の要請により、鑑真に先だち戒律を紹介するため日本に招かれ、736年インド出身の僧菩提僊那やベトナム出身の僧仏哲と来日する。

(文・一心)