陸儼少の「山水」(パブリック・ドメイン)

 1949年、中国共産党(以下、中共)は政権が成立以来、中国の伝統文化を徹底的に破壊し続け、中国国民を中国の伝統文化から情け容赦なく剥離してしまいました。

 その破壊は、1966年の「文化大革命(以下、文革)」より前から始まり、文革でピークを達していたのです。文革の炎で、多くの国宝が消えてしまい、多くの芸術家が残酷な迫害を受けました。

 「文革」より前に始まった「大躍進政策」の時期で、中国絵画にある伝統的な題材は、「資産階級のもの」とみなされ、完全に禁止されました。多くの画家は「大製鉄」のプロパガンダ絵画しか書かないよう強いられました。中共は画家の影響力を悪用し、「高度経済成長」の繁栄した風景を名家の画作を通じて、世の中へのプロパガンダを行い続けました。

 例えば、金陵画派の画家・銭松嵒(せん・しょうがん)氏は、中国近代絵画の歴史で名を残した有名な画家でした。そんな銭氏は『大江娯楽図』というお題の作品で、前面に松の木、奥に遠山をイキイキと描きました。しかし、中盤に描いてある長江の上に長江大橋を描き、手前のところに工業地域を描いてしまいました。こんな違和感溢れた作品こそが、中共が芸術家に課している要求に満たしているのでした。

金陵画派の画家・銭松嵒の「長城起點老龍頭」(パブリック・ドメイン)

 上海出身の山水画の名家・陸儼少(りく・げんしょう)氏は、中国近代山水画名家として名を馳せ、江蘇出身の李可染(り・かせん)氏と二人で「南陸北李」と称されます。陸氏は「沸騰した上海工業区」という上海工業地帯の盛んになった情景を描写するプロパガンダ画を描きました。しかし、そんなプロパガンダ画でも、題名に「沸騰」という文字が「反逆」の意味があると誹謗され、陸氏は絵を描く権利を奪われました。陸氏一家は小さな家に引っ越しさせられ、食事と作画は同じテーブルでしかできなくなり、筆と紙も制限されました。陸氏が描いた多くの伝統的な画作が悲しくも焼き尽くされました。

 「南陸北李」の中の李可染氏も文革の迫害から逃げることができませんでした。中国の近代山水画家の黄賓虹(こう・ひんこう)氏が活用していた積墨(せきぼく)法を基調として、オリジナルな技法を開発した李氏は、山を黒く描くことで有名です。そんな李氏の名作『漓江山水』は、画面の中の舟が漓江を逆らって上流へと進んでいることで、「江青を反対する」と誹謗されました。李氏にそういうつもりはなかったにも関わらず、絵を描く権利を奪われるという理不尽な目に合され、とことん批判されました。

李可染の「漓江」(パブリック・ドメイン)

 北京出身で有名な画家である梁黄胄(りょう・こうちゅう)氏は、軍隊生活と新疆少数民族の生活を反映した優秀な作品を多く描き、中でも驢馬は有名で、国内外で称賛されていました。しかし、それは文革期間中に三年間、新疆地区に下放されたためだとされています(註)。幼い頃から絵画を好んだ梁氏はその三年間、ひたすら驢馬の放牧のみという暮らしを余儀なくされました。

 長安画流派の重鎮である石魯(せき・ろ)氏は文革でひどく迫害され、やがて発狂してしまい、統合失調症になりました。その異常な精神状態が石魯氏の後期の作品に影響してしまいました。石魯氏が迫害されたのは、画面の上部に毛沢東と紅軍が山頂に立ち、画面の下には怒涛の大波が描かれた作品が起因です。「この怒涛の大波がどのように描かれたのでしょうか」と聞かれた石魯氏は、「中国の公衆トイレで、尿で汚れている床を見て、感じたものを描きました」と、正直な心境を吐露しました。この恐れることを知らない大胆な発言は、偉大なる指導者の毛沢東を侮辱する罪に問われ、批判の対象となり、迫害され続けることになったのでした。

 浙江出身の現代画家および美術教育家・潘天寿(はん・てんじゅ)氏は、浙江美術学院の学院長、中国美術家協会の副主席を歴任し、美術界で高い地位を築いていました。しかし文革において、「反動的学術権威者」として批判され、時には街頭に連れ出され殴打されました。酷く痛みつけられた潘氏は大怪我し、病気に罹ってしまいました。病院に行ったところで「反動的学術権威者」を診察することを恐れて、受け入れてくれる医者もいませんでした。やがて潘氏は病院の廊下で亡くなりました。

 上海出身の有名な画家・豊子愷(ほう・しがい)氏は、中国で初めて筆を使って漫画を描く画家であり、「中国の漫画の父」と称賛されています。上海中国画院の院長を務めた豊氏は、文革中で作画をやめさせられ、画院内に設けられた「牛棚」(私刑施設)に幽閉され、床掃除をさせられる毎日となりました。そして1969年から上海郊外の人民公社に下放されました。

 蘇州出身の有名な画家・吳湖帆(ご・こはん)氏は、収集家と鑑賞家として名を馳せ、中国画の鑑定に大きく貢献し、20世紀代の中国画壇の重要な画家のひとりです。インテリの家柄で、清王朝で高官を務めた祖父と父を持つ呉氏は、家で大量な名作を所蔵していました。しかし文革中、これらの書道と絵画作品はすべて焼かれることになってしまいました。紅衛兵たちはこれらの作品を長い時間かけて焼き尽くしてしまいました。誇り高い人生、積み上げてきた大切なものを否定されたような、殺されたも同然な惨い仕打ちでした。この光景を目にした呉氏の息子は、生きる力を失い、自ら命を絶ちました。

 文化界で革命を起こそうと、中共が引き起こした文化大革命。血なまぐさいその十年間、中国の画家と収集家たちはこの災難から逃げることができず、数多の苦痛を味わってきました。中共の罪業は、書き尽くせないほどひどいものです。

 註:下放(かほう)とは、かつて中国共産党政権に支配されている中国で行われた、国民を地方に送り出す政策のこと。1957年以降、毛沢東が共産主義に反発する政府や党の幹部や知識人を地方に送り失脚させた反右派闘争における政策の1つ。1968年以降の文化大革命期において、毛沢東の指導によって行われた徴農制度。

(文・戴東尼/翻訳・常夏)