江戸時代の三十三間堂(18世紀後半、歌川豊春画)(Utagawa Toyoharu, Public domain, via Wikimedia Commons)

 三十三間堂は、京都市中央部の東山区にある天台宗の寺院「蓮華王院」の本堂の通称です。通称の由来ともなっている、南北に120mに及ぶ長大なお堂内陣の33ヶ所もの柱間が特徴の三十三間堂は、木造の建物として世界最長です。

(上)本堂東側、(左下)本堂西側、(右下)本堂東側(写真撮影:看中国/常夏)

 西暦1165年、後白河上皇は平清盛の寄進により、自身の院政を行う御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の一画に三十三間堂を建立しました。建長元年(1249年)、火災により焼失しましたが、文永3年(1266年)後嵯峨上皇により再建され800年余り、室町、桃山、江戸、昭和の4回の大改修を経て現在に至ります。

 そのお堂内の中央には、鎌倉時代の再建時に大仏師「湛慶」が弟子と共に完成させた「中尊」と呼ばれる本尊「千手観音坐像」が安置されています。本尊の左右には、階段状の長大な仏壇がありそれぞれに500体、計1000体もの千手観音立像が整然と立ち並びます。全ての仏像は、ヒノキ材の寄木造り、全体に漆箔が施されています。各像は、頭上に11の顔をつけ、両脇の40手に持つ数多くの法器で、「世界を救い済度する」と伝えられています。1000体の中の124体は、建長元年の火災時に救出された、平安時代のお堂創立時の尊像です。

本尊千手観音像(湛慶作)(Bamse, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 建立当時、地震等の災害により、数多くの大型建築物が姿を消しました。工人達はその苦い経験を経て、和様、入母屋造り本瓦葺きの三十三間堂に、様々な工夫を凝らしました。

 まず基礎地盤に、層状に砂と粘土を堆積し地震の震動を吸収させる「版築(ばんちく)」と呼ばれる方法を用いました。

 又、堂内の屋台骨には、「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」と呼ばれる、柱間を2本の梁で繋ぐ方法を採用し、外屋の上部の柱間にも二重の梁を掛け堅固な構造にしました。

 更に、構架材の柱・長押・梁は、地震の揺れを予測した組み方を施し、土壁の面積を極力減らした上、溝を切った柱に横板を落し込む「羽目板(はめいた)」と呼ばれる板壁にしました。お堂は、地震に襲われても、波に揺られて浮かぶ筏(いかだ)のように「揺れ動く」免振構造となりました。

(上左)鐘楼、(上中)北門にある蓮華王院本堂の紹介、(上右)庭園にある木々たち、(下)廻廊(写真撮影:看中国/常夏)
(左上)本堂南側、(左下、右上、右下)南庭園(写真撮影:看中国/常夏)

 古都京都で大切にされてきた由緒ある三十三間堂ですが、一年を通して様々な行事が催され、現在でも国内外からの多く観光客で賑わっています。

 「桃山時代に行われていた」との記録が残っている「通し矢」も有名な行事一つで、江戸時代に最も盛んに行われていました。舞台は本堂西の軒下で、縁の南端から120m離れた縁の北端の的をめがけ、丸1日を掛けて軒天井に当たらぬようたくさんの矢を射抜く「通し矢」は、京の名物行事でした。江戸時代の各藩の弓術家が自らの威信を賭けて競い合ったこの行事は、江戸時代中期以降徐々に行われなくなりましたが、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」としてその伝統を今に伝えています。

 毎年1月15日に一番近い日曜日に、全国から集まった約2000人もの弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、新春に相応しい華やかさで、早春の京都の風物詩のひとつとなっています。参加には条件が有りますが、当日の見学は無料で、境内は終日賑わいをみせます。

 千年の古都に佇む三十三間堂。多くの観音さまのご加護の下で、仏法の荘厳さを次世代に伝え続ける事でしょう。

(翻訳編集・常夏)