明の宣宗・朱瞻基が1427年で描かれた『松下読書図』(國立故宮博物院・台北より)

 「扇面書画」とは、扇子の地紙で描いた書道や絵画の作品です。中国では、悠久なる歴史を誇る伝統的な芸術品です。

 扇子の起源について、唐王朝期の『獨異志』で、世界には伏羲と女媧の二人しかいなかった宇宙の始まりの時、女媧は「草を結び扇を造り、その面を覆い」、伏羲と夫婦になったとの記載があります。これを見ると、扇子は遥か昔から存在していたようです。

 舜帝(しゅんてい)の時代、舜帝が各地方を視察した時携行していた「五明扇(ごめいせん)」という厄除け飾り扇がありました。殷商の時代には、キジの尾羽で作られた「羽扇(うせん)」が出始め、漢王朝以降、四角い、丸い、六角など、様々な形をする白い絹布で作られた扇子が造られましたが、宮中でよく使われた為、「宮扇(きゅうせん)」とも呼ばれました。隋唐時代では、練り絹張りのうちわ「紈扇(かんせん)」と「羽扇」がトレンドでした。そして宋王朝以降には、紙で作られた折扇が明清王朝期で流行しました。

 上古世紀から現れた扇子。史書の記載によれば、その扇面に詩題の絵を描くのは、三国時代から始まったそうです。唐王朝期の絵画史家・張彦遠が著した『歷代名畫記』に、曹操の臣下を務める楊修が扇子に絵を描けと曹操に命じられた時、うっかりと墨滴を扇子に垂らしてしまったことがありました。機転を利かせた楊修は、その墨滴をハエに見立てて描いたという逸話が記載されました②。また、『晉書・王羲之伝』に、王羲之が老婆に扇面書道を書いてあげたという逸話が記載されました③。現在の浙江省紹興市の観光スポットになった「題扇橋」は、かつて王羲之が老婆の扇に書を書いた場所だったとか。

 各王朝期の書道家と画家は、胸の内にある想いや考えを表現するために、扇面に書や絵画を描くことが好きでした。洒金箋、泥金箋、格巾、老礬面などの扇面は、悉く書画作家たちの舞台になりました。幅一尺未満の扇面で画面構成に工夫を凝らし、花鳥山水や人物の動きを繊細に書き滑らせる書画作家たちは、小品ながら精緻な墨宝を世に残しました。

南宋・趙伯驌「風檐展巻」( パブリック・ドメイン)
明・文徴明(ぶん ちょうめい)の扇面絵( パブリック・ドメイン)
清・華喦(かじょう)の扇面絵( パブリック・ドメイン)

 数多くの扇面画の中で、稀世の宝と呼ばれる一枚は、明の宣宗・朱瞻基が1427年で描かれた『松下読書図』です。扇面の真ん中に生える古松の下に座っている文人は、目の前に開いている書と隣にいる赤い服の召使いにそっぽ向け、遠くのせせらぎを静かに見つめています。温和で静謐な雰囲気の中、古様な趣きと、皇帝である朱瞻基の深い造詣を知り伺えます。

 明王朝期の成化年間(1465年 – 1487年)になると、皇帝だけではなく、一般人も扇面書画を楽しむようになりました。「明代四大家」の沈周、文徴明、唐寅と仇英が扇面書画の風潮を引き起こしてから、明末の董其昌がそれを発展させたため、清初の「清代六大家」を始めとする清王朝期以降の書画芸術に深い影響を及ぼし、多彩な扇面書画芸術は今も変わりなく盛んでいます。

 そんな書画を載せている扇子は、明清王朝期において、独特な芸術媒体となりました。扇面には華麗な書画、扇骨には繊細な彫刻。実用性と芸術性を持ち合わせる扇子は、文人韻士たちの必携品となりました。懐と袖を優雅に出入りする物であることで、扇子は「懐袖雅物(かいしゅうがぶつ)」という別名をもつようになりました。

 優美であるだけでなく、人々の日常生活においても身近なものとなった扇子は、現代中国においてもあまねく愛されています。扇子の精巧な構造、扇子に載せる書画芸術は、中国の伝統文化の代表のひとつとして、この先もずっと未来へと伝承されていくのでしょう。

 註:

 ①中国語原文:乃結草為扇,以障其面。(李元『獨異志・第三卷卷下』より)

 ②中国語原文:楊脩與魏太祖畫扇,誤點成蠅,遂有二事。(張彦遠『歷代名畫記・第四卷』より)

 ③蕺山で六角の竹扇を売っている老婆に出くわした王羲之は、商品の扇子に自らそれぞれ五文字を書いた。やや怒っているように見える老婆に、王羲之は「これが王右軍(王羲之)が書いたものと言おう。そうしたら百銭も儲かるだろう」と言った。老婆は王羲之の言うとおりにしたら、扇子がすぐさま完売した。中国語原文:又嘗在蕺山見一老姥,持六角竹扇賣之。羲之書其扇,各為五字。姥初有慍色。因謂姥曰:「但言是王右軍書,以求百錢邪。」姥如其言,人競買之。(房玄齡『晉書・列傳第五十 王羲之』より)

(文・戴東尼/翻訳・常夏)