明王朝時代の茶碗(イメージ / PICRYL CC0 1.0)

一、青磁

 青磁とは、青磁釉を施し、透明感のある青緑色の磁器のことです。その起源は紀元前14世紀頃の中国の殷(いん)にまで遡ります。

 青磁は中国において、多くの文化人・知識人に愛されました。その理由の一つが、碧玉に近い色であると言われています。碧玉は古代より、君子が身に付けるものとされ、儒教においては徳の根源とされており、尊重されていました。そのため、碧玉に近い色の青磁は貴族に宝器として受け入れられたそうです。

 また、青磁は東洋以外では焼造されることがないため、その幽邃な美を秘めた色は、東洋文化の象徴の一つとも言われています。

 日本の文献では、青磁が最初に日本に現れたのは、唐物の流入が盛んになった11世紀だと記されています。平安時代の遺構から青磁器の出土例が多くあり、中でも茶碗が最も多いようです。鎌倉時代に日本でも茶の湯が広まり、安土桃山時代にかけて発展しました。茶人達は中国龍泉窯で作られた良質の青磁のことを「砧青磁(きぬたせいじ)」と呼び、特に好んでいました。

二、青磁茶碗 銘馬蝗絆

重要文化財である「銘馬蝗絆」という青磁茶碗(時代:南宋(13世紀)、産地:龍泉窯、サイズ:高9.6 口径15.4 底径4.5、東京国立博物館に所蔵)

 東京国立博物館に所蔵されている「銘馬蝗絆」という、青磁茶碗を代表する優品があります。そのホームページで、「銘馬蝗絆」について以下のように紹介しています。

 日本に伝えられた青磁茶碗のなかでも、姿、釉色が特に美しいばかりではなく、その伝来にまつわる逸話によって広く知られている作品である。

 江戸時代の儒学者、伊藤東涯によって享保12年(1727)に著された『馬蝗絆茶甌記』(ばこうはんさおうき)によると、この茶碗は安元初年(1175頃)に平重盛が浙江省杭州の育王山の黄金を喜捨した返礼として仏照禅師から贈られたものであり、その後室町時代に将軍足利義政(在位1449~73)が所持するところとなった。

 このとき、底にひび割れがあったため、これを中国に送ってこれに代わる茶碗を求めたところ、当時の中国にはこのような優れた青磁茶碗はすでになく、ひび割れを鎹(かすがい)で止めて日本に送り返してきた。あたかも大きな蝗(いなご)のように見える鎹が打たれたことによって、この茶碗の評価は一層高まり、馬蝗絆と名づけられた」

伊藤東涯・「馬蝗絆茶甌記」(東京国立博物館)

三、竜泉窯について

 竜泉窯とは、中国浙江省龍泉及びその付近にあった青磁の産地の窯のことを言います。

 龍泉青瓷は三国時代(紀元220年~280年)に現れたとされ、初期のものは紋様が簡単な日用品で「原始青磁」と呼ばれています。

 南宋時代には、龍泉窯は中国の南北の技術を融合し、青磁焼成は全盛期を迎え、数多くの青磁を作り出しました。その作品は素地が白く、釉薬は厚く、玉のように透き通る上品な色合いを特徴とし、南宋皇帝の高宗にも気に入られていました。

 南宋時代全盛期に龍泉窯にて作られ、日本に伝来した「青磁茶碗」は、約300年後、ひび割れが生じたとして中国に送られ、代わるものを求められました。このことから、「青磁茶碗」がとても大切にされていたことが良く分かります。

 明の時代になると、龍泉窯はすでに衰退期に入り、もはや当初の焼き物を作れなくなりました。龍泉窯の職人はひび割れた「青磁茶碗」を、鎹で止めて日本に送り返したのはとても残念なことでしたが、しかし、このエピソードは青磁茶碗「銘馬蝗絆」を、より内容の濃い魅力的な逸品にしてくれました。

(文・一心)