(イメージ:看中国 / Vision Times Japan)

 漢字の書道芸術は歴史が長く、数千年にわたり高い芸術性を成し遂げた。その書体の変化は多彩で、大きく分ければ、篆書(てんしょ・大篆と小篆を含む)、隷書、楷書(真書ともいう、魏碑と唐碑の文字を含む)、行書、草書がある。

 隷書体は秦代にすでに形成された。晋代の衛恒は『四体書勢』の中に「秦代は篆書を公文書に使っていたが、多くの書類を書く必要があり、篆書は書きにくくて時間がかかるため、隷人(下働きの役人)を使って公文書を書いていた。これを隷書という」と記している。後世には「秦代の監獄の役人である程邈(ていばく)が隷書を作った」という説もある。

 実際、秦代にはすでに多種類の書体があった。『説文解字・序』の記載によれば、「秦代には8種類の書体があり、つまり大篆、小篆、刻符、虫書、摹印、署書、殳書、隷書だった」

 初期の隷書は小篆体の字形を少し残していたが、使っているうちに次第に変化し、筆勢と構造は小篆の字形から完全に抜けて、小篆と全く異なる字体になった。隷書体の形成は漢字の書体を大きく前進させ、その後の各種の書体流派の形成の基礎を築いた。

 漢代になって、隷書体が広く使われるようになり、次第に篆書の地位に取って代わり、一般的に使われる書体になった。漢代の隷書は「八書」あるいは「八分」とも呼ばれて、筆法も成熟し、書体の風格も多様化した。東漢時代になると、隷書は全盛期になり、「八分」字体を使って書いた碑文(石碑に書いた文書)が多く現れた。よく知られている乙瑛碑(いつえいひ)と曹全碑(そうぜんひ)以外に、石門頌碑、礼器碑、孔廟碑、華山廟碑、史晨碑、西狭頌碑、熹平石経碑、韓仁碑、尹宙碑、張遷碑などもあった。

『西嶽華山廟碑』(パブリック・ドメイン)

 晋代から唐代にかけて、楷書は次第に盛んになっていったが、隷書は淘汰されることなく、今日まで依然として人々に愛用されている。これは隷書の構造と筆の運び方の豊かさ、及びその多様の芸術風格に関係があると考えられる。

(文・東方)