古代の将軍(神韻芸術団ホームページより)

 紀元前129年、閣僚(太中大夫)だった衛青(えいせい)は、前漢の武帝に匈奴討伐のため、「車騎将軍」に任命され、軍人としての人生を歩み始めました。匈奴征伐に7回も出陣し、連戦連勝した衛青は、徳と慈悲、謙譲すべての心を持ち合わせていました。だからこそ、衛青は武帝に信頼され、部下にも推戴される一代の名将となりました。

 自分の手柄を部下の昇進に

 紀元前124年、衛青は4度目の匈奴征伐で大勝を成し遂げ、堂々と凱旋しました。武帝は衛青に大将軍の称号と封地を与え、衛青の3人の息子をも諸侯に封じようとしました。ところが、衛青は断固として断りました。

 「私は幸運にも軍隊に勤める事ができ、陛下のご神威と将校たちの協力により、戦場で勝利を掴むことができました。陛下はすでに私に封地を与えて下さいました。まだ幼く功績のない我が息子をも諸侯に封じられては恐れ多いことでございます。私の部下を労うことこそ優先されるべきであり、我が息子への封侯を謹んで辞退致します」

 努力して勝利に貢献した将兵たちではなく、功績のない息子たちが諸侯に封じられたら、今後、将兵たちに合わせる顔が無くなり、士気を高めることが難しくなるという、率直な気持ちを申し上げた衛青でした。

 息子への封侯を辞退した衛青を見て、武帝はその気持ちを察し、衛青の部下の10名の将官をその場で諸侯に封じました。今回、共に凱旋した公孫賀と李沮、李蔡などの将官の他、幾度となく衛青に従い匈奴征伐で戦った公孫敖も諸侯に封じられました。自分のことより、部下の昇進を願う衛青の想いが切実でした。

 臣下としての本分を守る

 紀元前123年、6度目の匈奴征伐で、衛青の右将軍・蘇建は敗戦しました。率いた部隊が全滅した蘇建は一人で漢の軍営に逃げ帰ってきました。敗戦の責任を問われた蘇建を斬首し、大将軍の威厳を示すべきだという人がいましたが、衛青はそのようにしませんでした。

 「私は皇族の一員(註)として軍隊に勤めているので、わざわざ威厳を示す必要がありません。大将軍として、部下を斬首に処することができますが、この決断を天子陛下に任せるべきだと思います」と衛青は語りました。臣下としての本分を守る衛青は、自身の権力を乱用しないことを貫きました。

 罪人として国に帰った蘇建は、武帝の赦免を賜り、一般人に降格されましたが、後にまた太守に抜擢されました。蘇建の息子・蘇武は、後に匈奴への使者となり、絶対に匈奴に屈しない気節を貫く人格者として、後世に語り継がれました。漢王朝一の大将軍の衛青が蘇建を殺さなかったことは、武帝に見直されたのはもちろんのこと、臣下としての本分を守り抜くためでした。衛青の謙譲心による行動が、結果として蘇一家の漢王朝への忠心までも得ることができたのです。

 誠実こそ最大の賢さ

 最終的に匈奴征伐に勝利しましたが、部下の蘇建の率いた部隊が全滅したのも事実です。そのため、武帝は衛青の封地を増やすことなく、ただ千両の黄金を下賜しました。

 当時、武帝の最愛の寵姫は衛皇后ではなく、王夫人でした。そんなある日、寧乗という方士が衛青に進言しました。

 「大将軍は、姉の衛皇后のおかげでここまで出世することができたのです。しかし今、天子陛下の寵愛を受ける王夫人は、その家族が出世どころか、まだ裕福ではない生活を送っています。大将軍はこのたび、千両の黄金を賜りましたので、それを王夫人の両親に贈り、賀寿の意を伝えた方が良いでしょう」

 そのような寧乘の進言にのった衛青は、五百両の黄金を長寿祝いとして王夫人の両親に贈りました。そして武帝の質問に対し、衛青は包み隠さず、事の経緯を説明しました。武帝は寧乘を東海郡の都尉に封じ、昇進させました。

 衛青は、特にそのつもりではなかったのですが、利害を計り比べてから、寧乘の進言に乗り、王夫人の両親に祝金を贈ったのです。一方、王夫人を寵愛している武帝は、疎遠になった衛皇后の弟でありながら長年の信頼を置いた衛青が、柄でもなく王夫人の両親に祝金を贈ったことに対して、おかしいと思うのも当然です。そんな武帝の質問に対し、衛青が全ての真実を話さなかったら、それこそ天子陛下を騙す重罪を犯すことになります。ただ事実を武帝に報告した衛青は、かえって武帝の信頼と賞賛を得ることができました。そして寧乘の昇進も、武帝が衛青への信頼の証となりました。

 皇后の実弟。歴戦歴勝の大将軍。新たな寵妃とも事実上の親族関係を持つ大臣。そんな多くの身分を持つ衛青は、苦渋な決断をさせられても、ただ誠実を貫くことで、関わる全ての人を幸せにしようとしました。まさに誠実こそ最大の賢さです。

衛青墓(Acstar, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 酷い目に遭っても大いなる慈悲心を

 紀元前119年、衛青は最後の匈奴征伐に臨みます。今回の戦いでは、匈奴の単于と接戦するはずでした。しかし、別方面から進軍した李広らは、道に迷っていたため、匈奴との戦いに遅れてしまい、単于を逃してしまいました。衛青は部下に賄いをもって李広を労うようと派遣し、作戦の報告書を出すために李広の部下に質問しようとしました。ところが李広は、思わずその場で自刎しました。

 実のところ、「飛将軍」として名を馳せていた李広はこのころ、匈奴としばしば戦っていましたが、なかなか戦功を得られませんでした。そのため、今回の匈奴接戦では、衛青は武帝の密命を受け、正面で戦いたかった李広を別方面の軍に回しました。しかし、李広の軍は道案内がいなかったため、道に迷って匈奴との戦いに遅れてしまいました。誇り高き李広は武帝の密命を当然知らず、大将軍衛青の命令を恨み、自分の死をもって抗議の意を示しました。

 李広の死後、李広の末子・李敢は父の死のことで衛青を恨み、酒宴の席で衛青を殴打しました。しかし衛青は、この件を隠し、不問としました。

 まだ地位が高くない李敢は、大将軍衛青を殴打すること自体が、結構な罪に問われるはずでした。ところが衛青は、李広を自殺に追い込んでしまったことに負い目を感じたため、李敢の気持ちを察するあまり、無礼を許しました。そして当の李敢を守るために、人知れず自分だけが酷い目にあう選択をしました。人を思いやる衛青の大いなる慈悲心が伺えます。

 漢王朝一の大将軍・衛青。飛将軍・李広や、若くして大活躍の霍去病のように、朝廷や世間などでの人気がありませんでした。しかし、衛青の人思いで慈悲に満ちあふれる心、臣下としての本分を守る誠実さ、そして権力や地位のある強い立場にいながら、人を決して力で抑えつけることなく、謙譲心と徳をもって導いたその崇高さからにじみでる品格をどのように表現しましょうか。

 このような素晴らしい人徳者が中国史上実在していたのだということを、是非もっとたくさんの人に知っていただきたいです。

 註:衛青の姉・衛子夫は武帝の寵姫であり、紀元前128年に夫人から皇后に昇格しました。

(翻訳・常夏)