清代の張遼の画(パブリック・ドメイン)

 中国三国時代、25歳で曹操を、29歳で劉備を、そして46歳で孫権を追い詰めた名高い武将-その名は張遼(ちょうりょう)。三国の君主に当たる人物を次々と打倒した、中国史上六十四名将の中でも唯一無二な一人です。

 紀元169年生まれの張遼は、もともと黄巾の乱における大将軍、何進の配下でした。董卓が洛陽を攻略した後、董卓の配下となりました。そして董卓が呂布に暗殺されると、呂布の配下となりました。

 張遼は呂布の配下だった頃、曹操を追い詰めました。紀元194年、曹操は徐州に侵攻しました。これに乗じて、張遼は呂布とともに、曹操の本拠地である兗州と濮陽を攻略しました。曹操は徐州から戻り、呂布に反撃を仕掛け、濮陽への奇襲を図りましたが、張遼の戦略により大打撃を受け、危うく呂布の捕虜になるところでした。25歳の張遼は、歴史的大人物である曹操をやり込めたのです。

 紀元198年、劉備配下の張飛は山賊を装い、呂布の軍馬を強奪しました。激怒した呂布は、張遼と高順に劉備への攻撃を命令しました。やがて張遼に敵わないと悟った劉備は沛城から逃走しました。劉備は関羽の援護でかろうじて逃げ切ることができました。このとき張遼は29歳でした。

 呂布が一度は追い詰めた曹操に敗れて処刑された後、張遼は曹操に降伏し、数々の戦功を挙げました。紀元213年、曹操に大きな信頼を置かれた張遼は孫権の征討に向かい、その後、合肥に駐屯しました。紀元215年、曹操が張魯を攻め落とすため漢中へ遠征しているところ、孫権はこれに乗じて自ら10万と号した大軍を率い合肥に侵攻しました。当時合肥に駐屯していた張遼の軍勢は、数千人という不利な状況でありながら、張遼は城を出て戦うことを決断しました。張遼は精兵800人を集めて敵陣へ突撃し、孫権の目前にまで攻め寄りました。さらに、孫権軍に封じ囲まれた配下を救出しました。

 この奮闘に勇気づけられて、曹操の将兵は孫権の度重なる攻撃から合肥を守り通しました。なかなか合肥を陥落させることができない孫権は、陣中に疫病が発生したこともあり、撤退を始めました。張遼は、撤退中の寡兵の孫権軍に再び急襲をかけて追撃しました。張遼は孫権に大きなダメージを与え、孫権を生け捕り寸前まで迫りましたが、あと一歩というところで惜しくも逃げられてしまいました。運良く命辛々逃げ切った孫権。このとき張遼は46歳でした。

 武運長久で波乱万丈な生涯を送った張遼は、50代で病によりこの世を去りました。三国の君主である曹操、劉備、孫権を追い詰めた武勇伝をもつ張遼は、三国時代唯一無二の武将として語り継がれています。

(翻訳・常夏)