(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 現在の内モンゴル自治区包頭市のトゥムド右旗辺りは、中国が中華民国であった時代にサラチ県の行政区画となりました。「サラチ」はペルシャ語に由来し、「聖なる母」を意味しています。中華民国35年(1946年)、県は、当時の県長である韓紹祖氏が編修し、バエンタラ(巴彦搭拉)盟盟長のポインタライ氏が書名を揮毫(きごう・毛筆で文字や絵をかく)した『サラチ県誌』を出版しました。この民国版の県誌第16巻の雑記の「逸聞」欄に、いくつかの地元の民間の異事が記録されています。そのうちの二つを皆さんと共有したいと思います。

一、張胡藍さんは寿命を延ばされた

 サラチ県五区保同河村の張胡藍さんは温和な20歳の若者でした。ある日、張さんは突然病気に襲われて死にました。未亡人の母親は大声を上げて泣き、悲しみました。夕方になって、母親は突然外から、「泣く必要はなく、棺に入れる必要もない。息子は延命のため、しばし連れていかれただけなので、すぐに帰ってくる」という声が聞こえたので、母親はすぐに外に出て確認しましたが、誰もいませんでした。その声は神様による啓示だと気づいた母親は指示に従い、棺桶に入れることも泣くこともやめました。

 夜中に突然息を吹き返した張さんは、母親に水を求め、数杯飲んで完全に元気を取り戻してから、母親に自分の身に起きた体験を話しました。「今日の午後、2人の胥吏が、私の元神を人間社会の役所に似たようなところに連れていきました。名前と出身地を聞いた後、長官のような神様は私に、『召喚したのは特別な用件のためではなく、寿命を少し延ばしてから帰すためです』と言いました。その役所には、同じ村ですでに亡くなった張さんもいました。彼はそこで鬼たちを管理していました」と話した。この県誌が編集された時には、すでに張胡藍さんは70歳を過ぎていました。

二、牛疫の使者が処方箋を伝えた

 清朝の同治帝の治世年間(1862-1874年)、サラチ県廟爾溝付近では牛の疫病が流行っていました。毎日何十頭もの牛が村で死んでいました。玉豊恒(屋号)には80頭以上の牛がいましたが、すでに2頭が死にました。ある日の深夜、夜の餌やり係の牧夫が、起き上がって馬に餌をやりに行こうとすると、突然、素焼きの壺を持った男を見ました。その男は牛舎に直行すると、壺の中身から牛1頭につき大さじ1杯を飲ませ、牛たちは従順にそれを飲んでいました。

 これを見て驚いた牧夫は、男が普通の人間ではなく、もしかしたら牛の疫病と何か関係があるかもしれないと思い、そっと男の後ろに回り壺を掠(かす)め取りました。中国の神話では、スプーンや壺は疫病神の道具だと言われています。男は怖くなって、牧夫に壺を返すよう懇願しました。牧夫が「壺を返したら、私の牛を救ってくれますか?」と聞くと、男は「大黄と他のいくつかの薬(他の薬の名前の記録がなくなった)を煎じて牛に飲ませばよい」と伝え、壺を手にするとあっという間に姿を消しました。それ以来、廟爾溝では牛が死ぬことはなくなり、たまに牛が疫病にかかっても、この処方で治療すれば必ず治っていました。県誌が編集されたときでも、地元にはこの処方箋を保管している人がいたと言われています。

 一つ目の民話では、張胡藍さんは優しい人で、日頃から善行をしていたため、他空間の生命に神様の元へ連れて行かれ、寿命を延ばしてもらいました。人間の元神は生命の実体であり、人の死は肉体の死亡に過ぎません。この人間の皮を脱いだ後、人間の元神がどこへ行くかが最も重要なのです。人間の生死や寿命を司るのは神であり、無神論は共産主義のプロパガンダに過ぎません。

 二つ目の民話では、壺を失って復命できない「牛疫の使者」によって、牛疫の処方箋が伝えられました。使者も命令に従っただけでした。では、誰から命令を受けたのでしょうか? 伝統文化に触れたことがある人なら誰もが知っているでしょう。それは疫病神です。類推すると、現在世界中を荒らしているコロナウイルスも、高次元にいる疫病神によってコントロールされていると言えます。

 ここで皆さんにお伝えしたいのは、今は「天が中共を滅ぼす」時期なのです。感染しないで済むには、中国共産党(中共)を切り離さなければなりません。特に中共の組織に入っている人たちは一日も早く脱退し、はじめて身の安全を守ることができるのです。

(文・張以明)

(資料の出典:中華民国版『サラチ県誌』)

(明慧ネットより転載)