(絵:看中国/Mimi Zhu)

 『中庸(ちゅうよう)』とは、儒教の経典・『四書』の一つです。そのためか、『中庸』の話をすると、難しそうに聞こえてしまい、何の意味があるのかが分からないかもしれません。実は、中庸は全く難しい話ではありません。それどころか、私たちは暮らしの中に、無意識に中庸の道を歩んでいるのです。

 極端にならない中庸の道

 「過猶不及(かゆうふきゅう)」という孔子の言葉はご存知でしょうか?やり過ぎるのは、控えめ過ぎるのと同じようなもので、どちらも十分ではないという意味で、中庸の道を理解するのに一番手っ取り早い言葉です。極端的なやり方を取ると、目標と裏腹に、問題を起こし、失敗を招いてしまいます。物事は発展して頂点に達すると必ず反対の方向に転じるという法則は不変なので、間を取り、バランスを取ることが大事です。

 例えば、海を渡る船の場合、重さが偏ると船は転覆してしまいます。この場合、「中間」に重さを置き、バランスを保つことが合理的です。このようなやり方は、まさに儒教思想の知恵の頂点であり、一般人にも理解しやすく、実践しやすい至高な道・「中庸」の道になります。

 孔子の学問の奥深さの理由も、中庸の道を熟達しているからです。中庸の道を理解できなければ、儒教の伝える「仁と義」の理を理解できることができず、さらには教条主義的になり、時代遅れになってしまいます。そのため、中庸の道はとても重要で、意識的に運用すれば、盤石の地位を保つことができるでしょう。

 子供への教育にも中庸の道

 実は、私たちは日々の暮らしの中でも、中庸の道を歩んでいます。例えば、子供への教育において、過ちを犯した子供に対して、懲らしめることを忍ばず、ひたすらに放任したら、子供への害になり、やがては品行の悪い子供を育ててしまうでしょう。子供への愛が極端的になり、仁愛の理を過ぎてしまえば、大人になっても、子供は感謝の気持ちを持たず、親に対し文句やわがままを言うばかりになるのでしょう。これを理由に、仁愛の道を否定する人もいます。

 中庸の視点から見ると、親から子供への溺愛は、中庸の道から離れているので、「過猶不及」の結果に至ります。度を過ぎた仁愛は、仁愛のないことと同じようなものです。少しでも偏れば、愛は仁愛から離れてしまいます。そのため、中庸の道を歩まないと、仁愛をうまく与えることができません。

 同様に、子供への教育が厳しすぎると、「子供のためだ」とはいえ、子供の中には恨みが生じてしまい、反逆の意思を表し、もしくは臆病者になってしまいます。これも極端すぎたやり方を取った結果です。

 子供への教育だけでなく、夫妻、親子、嫁姑、友人、同僚など、様々な人間関係でも、中庸の道を歩むことが大事です。偏らない善意を持つことができれば、心の中で度を把握し、物事をうまくやっていけるでしょう。

 では、「中庸」の「庸」とは何の意味でしょう?「庸」は「平常、不変」を意味します。ですので「中庸」の意味は、「中」の道を「変わらずに」歩むことを意味します。変わってしまえば、バランスが崩れてしまいます。「中庸」はまさに「不変」の法則です。

(文・劉如/翻訳・常夏)