第40代の米大統領ロナウド・ウィルソン・レーガン氏(パブリック・ドメイン)

 2020年米大統領選には史上最も混乱した展開となりました。共和党候補トランプ氏がリードしていた州がほぼ同時に開票を停止し、トランプ氏の票数は止まったまま、民主党候補バイデン氏の得票数は短時間で急遽得票グラフで「直線的に」十数万の郵便投票が入り、逆転したという奇跡的な現象が現れました。他にも死人票、投票率100%を越えるなど数々、一般的に考えても起こり得ない現象が起こり、不正としか疑いようがありません。果たして裁判でどのような判決を下すのか、全世界の注目を集めています。そこで、選挙人団投票で圧勝したアメリカ元大統領をご紹介します。

 選挙人団538票中525票を獲得し、圧倒的な勝利を収めたレーガン氏

 米国の選挙は、「アメリカ選挙人団」という制度で行われています。簡単に言えば、米国の総選挙は538票の選挙人がいて、候補者が270票を獲得すれば、米国の大統領になることができるということです。

 米国の選挙の歴史を振り返ってみると、かつてこんな大統領がいました。彼は1984年のアメリカ大統領選挙で、民主党候補のウォルター・R・シュワルツマン氏の13票より圧倒的に多い525票の選挙人票を獲得し、アメリカの大統領になりました。

 彼は第40代の米大統領ロナウド・ウィルソン・レーガン氏です。

 1984年、再選を目指したレーガン元米大統領は、ジョージ・ブッシュ・シニア氏と組み、民主党の大統領候補ウォルター・モンデール氏や副大統領候補のジェラルディーン・フェラーロ氏らと選挙で勝負しました。

 その年、レーガン氏は5445.5万票、58.8%の人気投票を獲得し、全国で525票の選挙人票を獲得しました。当時の民主党大統領候補のウォルター・モンデール氏は3757.7万票でミネソタ州とワシントンD.C.の13枚の選挙人のみで惨敗しました。レーガン氏はこのようにして、共和党対民主党の時代に最も多くの選挙人票を獲得した記録を打ち立てました。

1984年レーガン元米大統領は民主党の大統領候補ウォルター・モンデール氏と選挙で勝負しました。(パブリック・ドメイン)

 少年時代のレーガン

 レーガン氏は米国で最も偉大な大統領の一人とされています。

 1922年、レーガン氏が11歳だったとき、友人とサッカーをしていた最中に誤って隣人の窓ガラスを割ってしまいました。レーガン氏は隣人に謝りましたが、12.50米ドルの賠償金を要求されました。当時は、卵を産う鶏を125羽購入できる十分な大金でありました。レーガン氏は父親に自分の過ちを認め、責任を取るように要求されました。彼は「このお金はどこから捻出すればいいのですか?」と困惑した顔で尋ねました。父親は「賠償金は代わりに払っておきますが、借りということで一年以内に返してください」と言いました。

 レーガン氏は父親に借金して弁償した後、一生懸命働き始めました。長い間の労働を経て、彼はようやく父親に全額返済できました。その後、彼は記者に「いかに2期もの大統領を全うし、皆に評価されたのでしょうか」と尋ねられた際に、このことが彼に大きな影響を与えたと話しました。

 1924年、レーガン氏が13歳だった時、イリノイ州ディクソンにあるノースサイド中学校(Northside High School)に通い始めました。レーガン氏は後にディクソンを故郷と称していました。

 1927年、レーガン氏が16歳だった時に、ディクソンに近く、ロック川の畔にあるローウェル公園でライフガードとして7年間働きました。その間77人の溺水者を救ったと言われています。後年レーガン氏は「救助した人のうち9人に感謝してもらえなかった」というジョークを話していました。彼はこの経歴に誇りを持ち、ホワイトハウスを訪れた人々に、執務室に飾られているロッキー川の写真を見せていました。

 政治的立場の転換

 レーガン氏はもともと民主党で、フランクリン・デラノ・ルーズベルト氏と彼が推進しているニューディール政策を擁護していました。1940年代後半には、ハリー・S・トルーマン氏の支持者だったことがよく知られています。1950年代初頭には、徐々に社会的・経済的にも堅実な保守派へと変化していき、1976年には「ニューディールは根本的なファシズムだ」と述べました。

 レーガン氏は、共和党の方が共産主義に対抗できると信じ、1962年に正式に民主党を離党して共和党に加入しました。

(翻訳・藍彧)